2024/09/16 00:27

この世の全てに答えなどなく
正解のカタチをしたソレは全て意見でしかない
僕は未だに1+1が「2」だとは,心の底からは思えない。
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物心がついた時には人の顔色を伺うようになっていた。
それは僕という存在を「いらないもの」として扱ってきた親に少しでも愛されたかったからだった。
その頃、この家族には「何も」無かった。
お金も愛も文化も知識も。
僕が覚えているのは毎晩となりの家まで響き渡るような親父の怒号と顔を背けたくなるような酒臭さ、それと天井。
夏休みなんか特に地獄だった。
頻繁に遊びに行くような友達もおらず,勉強をするような気力も努力も根こそぎ奪われ,ただ,何も無い家で天井を見ながら夜になるのを待つ。
子供の頃の1日というのは大人の感じる数倍は長く,耐え難い虚無が襲った。
そして迎える夜,とにかく夜は嫌いだった。
親父に理不尽に怒鳴りつけられ涙と鼻水でぐしゃぐしゃのサンドバッグ役にならなきゃいけないから。
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何かを作ることが好きだった。
ある日少ない小銭をやりくりして100円の12色入り油粘土を買った。
テレビや本で見た生き物やキャラクターたちを作ってみると子供ながらに上出来で母親に褒められた。
それから手先は器用さを増し、学校で面シーサーを作る授業があったのだが見事一番上手で賞を獲った。
ようやく何か誇れることが出来た気がした。
放課後に一番最後まで残って爪楊枝で細かい彫りを入れるまで拘った甲斐があったというものだ。
けれどモノづくりが好きな少年の夢もすぐに潰される。
とにかくお金がなかった我が家では小学生のお遊び用の粘土に100円もかけてはいられなかったらしく,「そんなもんもう買うな」と小遣いも夢も親父に没収された。
それからはまた何も無い。
殺意はあった。
ずっと殺してやろうと思っていた。
子供には残酷な理不尽が書ききれないほど色々あった。
「生まれてこなきゃよかった」
「死ね」
親からのそんな言葉にもう僕は何も感じなくなっていた。
いや今思えば感じないようにしていただけなんだろう。
体の痛みも,心の痛みも。
「無」なることで僕は僕を保つことができた。
客観的に分析して僕という個体は通常の人間より感受性が豊かであり更に愛情を多く欲する傾向がある脳をした生物なのだが、それらはどれも悪い方へ打ちのめされた。
後々発生する「離人症」にはひどく悩まされた。
20歳になりチャリで行った日本一周によって生まれた衝撃によって生の実感を得られたのが本当に救いである。
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長くなってしまったが,だからといって何を言いたいわけでもない。
どうして書き始めたかも分からない。
理由はない,ただそれだけのこと。
その連続が僕の人生です。